お知らせ
多賀講とは
時代の変遷とともに年末、多賀大社神符、年中心得書を配布させていただいておりますが、「お多賀さん」て何?何故?という質問や疑問を寄せられるようになってきました。
ご先祖様から続いている多賀講の由来について、お伝え致したく思います。
1.彦根の多賀大社を総本山として多賀講が全国に普及し信仰いただいていますが、室町、江戸時代の神仏習合時代には、大社内に不動院、般若院、観音院の僧坊があり、神官は同時に僧坊にも属していました。だから、大峰山で修験道を得た方が多賀大社の神官であり、僧坊でありました。
和歌山多賀神社も江戸時代六、七代前は上記の神官であり僧坊で、和歌山県下と大阪岸和田以南を布教の範囲として、いのち神・五穀豊穣神・お伊勢さんの親神として、各在所に「お宿様」をお願いし、各家を尋ね神符等を納めてまいりました。
2.明治四年、神仏分離令が出され、寺院は解体か移転、多賀大社も神道一筋となり、多賀講を組織し全国的に統一し、和歌山多賀神社も明治九年和歌山県令の許可が出て、数年後、現住所に神社を建立しました。現宮司より五代前のことです。
以後、和歌山より県下全域、大阪府をまとめ、多賀講和歌山県本部とし、「お宿様」「お世話方」のご援助を賜りつつ、お初穂をまとめ本社に神納しています。
高知本部、愛媛本部、三重、岡山、岐阜、西宮等、全国組織になっています。
明治、大正、昭和(大戦の中頃まで)神官が供を連れてお宿様宅に泊めて頂き回らせていただきました。
3.昭和二十年の終戦、農地改革等で時代は一変しました。兼業農家様が増え、留守の家も多くなり、人件費の高騰もあり、せっかくのお初穂も人件費になってしまい本社への神納も僅かになり、それで「お宿様」「お世話方様」のお力をお願いし、神符、年中心得書を配布させていただいているのが現状です。
4.明治時代中頃以後の名簿で、今日まで六代から四代前のご先祖様からのつながりが続いています。(明治以前の名簿は、空襲で焼失、現神社も戦前の三分の一程度に縮小しました。)
以上のような長い歴史のある多賀講です。
ご理解頂き、ご子孫、ご親戚、ご友人にご加入をお勧めいただき、多賀講を維持発展させたく、何卒よろしくお願い申し上げます。